昭和43年12月30日 夜の御理解
ただ今、ご主人の永瀬さんと今朝、土居の久富勇さんとが大きな川のところで、大きなその、桃を拾われたとこを頂きました。 ね、次にはあの、お見立てのハス付けを沢山、永瀬さんが頂かれる。それもやっぱり、勇さんに半分あげましょうち言うて「 」をしておるとこ。 他にも「 」ですね。 私はそれから感じきられた事は、桃と言うのは、私共が持っておるめぐりだとこう思うんですね。 そのめぐりの為に様々な形の上で、また精神の面で難儀をします。
難儀をしますとおかげでそこから、いわば日本一になる桃太郎が生まれて来るんだと。 ね、これはまぁ、私のまぁ、まぁ理想ですけれども。 私もどうしても一つ日本一のおかげを頂きたい。 例えば、お広前が大きく広くとか、信者がたくさんとかと、ね、という事もですけれども、それよりも私は本当に日本一ひとつ有り難い私にならせて頂く事。これが私の十何年間かけておる、もう有り難くならせて頂く為にはだからどんな修行もさせて頂こうと、こう思う、ね。
本当にあの、そこからね、有り難くならせて頂かなければおられない事が起きてくる、ね。 本当に有り難く思わなければ勿体無いというおかげが現れてくるんですよね。
とにかく信心をしておれば一年一年有り難うなってくると、こう仰せられますから。 もう理屈じゃないです。 有り難うなって行くための修行をする事が、私は本当の信心だと思うんですけれども。 あっ、それからあの、忘れておりました。
永瀬さんが頂かれた中に、その川に、まぁ言うなら5寸ぐらいな魚がいっぱい泳いでおる。 そこでその、あれは釜塚じゃろうかと言うて、「 」、あれは鯉の子だとこう言う、ね。 これは「 」あの、まぁ合楽の将来の事であろうと。 まぁ今は釜塚とも、鯉の子とも分からないような感じ。 釜塚と言や美味しい魚ではあるけれども、非常に格好の悪い魚。 異論子みたいなね。 今の合楽の方達の信心の姿じゃなかろうかとこう思う。
これが身についてお育て頂いて初めてお徳になる、まぁ大きな立派な鯉になるんだと。釜塚じゃなかじゃろうかと思いよったけども、「よか?」いんやあれは鯉の子だとこう、ね。 どうしてもその、私が有り難くならせて頂く事に焦点をおいて信心をさせて頂いておる。 で皆さんもやはりそこんところに焦点をおいての信心のけいこをせにゃならんが。 ただいま御祈念の時に、まぁあそこに御神前にお供えしてありました。 今日、富永先生がお見えになってから、「 」の結婚の事で正式に、まぁ結納が、「 」。 まぁ到着した訳でございますが。
あそこへ、手前に亀の横にあの、大きな打ち出の小づちがおいてある。 こちらには、あの鶴がこう待っておる「 」。
ね、これはどうでも私が、それを今日頂くんですよね。 これは亀と言やぁ私の事と仰るのですから、私がいい打ち出の小づち的な、もう必要なものが必要に応じてこう、打ち振れば出てくるような、お徳を受けていくという事の折に、ね、鶴というのは御信者の皆さんの事である。 亀の元に、いわば舞い飛んでくるのが御信者さんの姿。 その御信者さん方がです、いよいよ末広のおかげを受けられると言う事が、ね。
いよいよそのおかげを受けられるという事が、神様のまぁ願いでもありましょうが、その為にはどうしても、あの、前にこう紫に少し見えておるのは、あれは古川家の、に御使いになっておられる大きな草。 いわば八波の御紋章の中に「 」の紋どころでございますね。 今日も、とりたて作ってきて頂くなら、まぁお紋付はあのご紋にして頂きたいという、「 」にしなければならんから、今「 」にしてきて、欲しい「 」ありますが。 もう八波の御紋章のもう、手に頂けれるというだけでも、それこそ私共の両親じゃないですけれども、どんなに考えても有り難して、勿体無しって言うておりますけど。
本当にこのありがたくならせて頂きたいという願いの中にね、やはりその有り難う思わなければおられないというおかげが現れてくる。 ね、私は御理解を頂いて下さる、いつもよく「 」ですけれども。 いわゆる日本一を目指すという事は、いわゆる富士さんを目指すと。 ね、富士は日本一の山とこう言うように、本当にその、気高い山を、日本一の象徴というように申します。 ですから目指すところは富士山。これは、いわばあの、「はらい?」富士な富士から、ね、上に出て行く所の富士。 下へ下がるんじゃなくて上にこう、出て行く所の富士を理想としなければならんというような御理解を頂いておったが、何かこう、もう中何年も前から、その事がこう約束されておったような気がいたします。
とても私は下がり富士が、本当に上り富士のおかげになって金光家との繋がりというような事の上にも、それが御用にまた、御比礼の上にもおかげを頂いていかにゃならんと私は、これは固く心の中に感じてきた事でございますけれども。 え~その為にはどうしてもお互いがですね、ん~。 私が日本一を目指す、日本一の先生にもしなるなら、日本一の教会になるなら、皆さんは日本一の教会にご縁を頂いておる御信者という事になるのですから、ね。 「 」ばっかじゃないですけれども、とにかくその指紋が一人一人に違うようですね。
こればかりは顔形が違うように、似ておると言うても指紋だけは違うと言われておるように、それぞれの持ち味というものが与えられておる。 その持ち味がです、その持ち味をいよいよ生かして行くなら、その持ち味においての日本一が、私は頂けるとこう思う。 ね、赤なら赤、白なら白。 もう赤ではあれが日本一、白ではあれが日本一というように、命名が頂いておるそういう信心を一つ練らさせてもろうてですね、日本一の言うなら天地のところに、日本一のそれぞれの信心を目指すというなら出来てくる。 こういうような事でも私の慢心「 」がなくて、これは私の願いなの、ね。
ですから、その願いの為の修行ならば厭わない、と、まぁ私念願させて頂いて。 本当に、いわゆる富士山をめざしての信心をいよいよ「 」と思うております、ね。 今朝からも、今朝からも昨日も一昨日も頂いておりますように、今年の信心の焦点であります、ね。 いよいよおかげを頂きましてから、ね、より明るう、よりにこやかにと言うてござるのでございますから、ね。 この事に取り組んでおる皆さんが毎朝のように言われる事は、先生もうこの事が難しいのに驚きますち言う訳です。
ね、にこやかになろうと思うても、心を明るくしようと思うてもちょっとした事が暗くなったり、にこやかにはしよれないような人間の心というものはどうにも出来ない物がある。 ね、どうにも出来ない物を追求しておる。 それを、私共がお取り払いを頂いたら、後は有り難くなろうと思やぁ有り難くなり、にこやかになろう時にはにこやかになれるようなおかげが、自由自在に頂けてくるようになる。 そういうおかげを頂けた時にこそです、私共はいうなら自由自在のおかげというものが約束されるんだという風に思うのです。
ね、もう一つ、私も願うところ日本一の先生を目指したい。 それは偉い先生というじゃなくて、有り難い先生を目指す、ね。 皆さんもそれぞれの願いをかけられまして、ね、これだけは一つ自分が日本一にというような焦点をおいてです、おかげを一つ頂かねばならん。 え~まぁ、ね、ここにも色々、日本一的なあれが、御信者がありますね。 例えばむつやのけんじ君なんかはきょうじ高校日本一というおかげを頂いて。 私と一緒に日本一のネタばさげてから、「 」ております。
ね、東京の稔さんに、の奥さんの里であるところのふたば寿司なんかも、寿司屋では大きいとか沢山金を持っておるというじゃなくて、やはり日本一的なお店だとこう思うんです。 ね、天皇陛下にお寿司を握ってあげれるというそれを頂いたら、そういう意味でいくつか確かにここにあります、ね。 そういうような意味合いにおいてです、ね、これだけは私が日本一と思われるようなおかげを目指して、ね、けいこさせて頂きたい、ね。
それが神様の、また願いでもございますから、いよいよ教えに取り組む、ね。 そしてその教えのね、言うならば難しさに取り組む。 ね、そこから今日申しますように、ね、有り難くなろうと思うても、ね、明るくなろうと思うても、にこやかになろうと思うても、にこやかにさせないようとするもの。 有り難くなろうと思うても、有り難く思わせないとする心。 そういう心をいよいよ追求していくこと。 それが日々の改まりが第一と仰る信心ではなかろうかという風に思うのです。
信太郎